* Le troisieme jour *![]() 「ゴワ−ンゴワ−ン」パンテオンの重い鐘の音が部屋に響く。 「起きろ。オイ」枕元で目覚ましが鳴っている。 「吉川君。コ−ヒ−飲む?」森田はうれしそうな顔でこちらを向いた。 昨日さよさんの家からの帰り、教えられてパリ市役所の隣にあるBHV(ベ−アッシュヴェ−)という巨大なデパ−ト・・・売っているものは東急ハンズに近い・・・に寄った。そこで森田は舞台をつくるのに必要と思われる工具とともに「絶対必要だ!」と言い張ってキャンプ用の小型ガスコンロを買ったのだ。 なるほど、たしかに早くも役立っている。部屋中に香ばしいコ−ヒ−の匂いが充満する。あつかましくも、昨日さよさんの家にあったグラスや塩、鍋、インスタントコ−ヒ−を分けてもらってきたのだ。 さていくら無謀な我々とはいえ、本当に全く何の手がかりもなしにきたわけじゃあない。(と僕は思っていた)今日は今回の企てのフランス人コ−ディネ−タ−の一人(と高田は言った)に、会いに行くことになっている。名前をアラン・ゴメスと言う。彼のアパルトマンはメトロ・ヴォルテ−ルから近い、パッセ通りにあった。 「やあいらっしゃい」 見るからに温和な、マルチェロ・マストロヤンニが少し気弱になったような感じの人が扉を開け出迎えた。背に金の箔押の入った革装本が壁一面ずらりと並び、学者か研究者の雰囲気の部屋である。 「まあまあ、お疲れの所。時差ボケは大変でしょう」 ゴメスは実に丁寧で、正確で、流暢な日本語を話す。やれやれ頼りになる人が現われたと安心したのだが、どうもこの人コーディネーターとかプロモーターという雰囲気には、ほど遠いんだな。 「あのー日本にいらしたことはあるんですか?」僕はゴメスに聞いてみた。 「ええ、もちろん」 「何をなさってたんですか?」 「アテネフランセってご存じ?」 「聞いたことありますけど」 「お茶の水にある、フランス語の学校なんですが、そこで先生をしていたんです」 「エッ、じゃあパリでは、何をなさってるんですか?」 「ええ〜翻訳の仕事をやってるんですけど」 ゲゲッ! この人にコ−ディネ−トなんて出来るのかなあ? そもそもなぜ、パリに山海塾は行こうとしたのか。 大駱駝艦(ダイラクダカン)という舞踏カンパニーがあるが、70年代後半はそこにいたメインのダンサー達が独立し、小さな分派が乱立した時期であった。 天児牛大率いる山海塾もその一派で、創立4年目。(1979年)まだ大駱駝艦舞踏山海塾と名乗っていた。 当時の山海塾はまだ無名で年に数回の東京公演。そしてダンスキャラバンと銘うっ て大学の学園祭や地方都市での国内ツアーを行ってはいたが、公演を行う場所や観客は限られていた。
(1979年日本国内ツアー、立命館大学学園祭の看板。金柑少年と僕のジャズトリオとの競演という組み合わせで行った。)そんなある日のこと、天児が親しくしていた在日フランス大使館在任の文化参事官ジェラール・コスト氏が天児を大使館に呼び、目の前で彼がパリに電話をかけて、出演交渉をしてくれたのである。 そしてその場でカレ・シルヴィア・モンフォールでの公演が決まり、さらにコスト氏から紹介されたアテネフランセの教師を通じてパリの友人(前述のゴメス)にコンタクトを取ってもらった所、フォ−ラム・デ・ア−ルのオ−プニングイヴェントの出演も決まりそうになった。 このまま日本にいても、とてもじゃないが公演だけでは食っていけない。 ヨーロッパ に行けば、客もいるかもしれない、ウケルかもしれない、もしかしたら公演をやるだけ で暮らせるかもしれない・・・という現実的な野望と、もちろん数々のアルティスティクな 理由とフィロゾフィクな理由とともに、山海塾はパリに行くことにしたのだった。 そもそもこの段階で、天児以下ダンサー達は1年間ツアーすることを決意した らしい。 ところが、いざパリに来てみるとレ・アールの公演と言っても、レ・アール広場の商店会主催のたった9日間のイヴェントだったし、シルビア・モンホーでの公演は200人で満員になる小さなテント小屋での、いわゆる手打ちの公演(つまりチケットを売った分だけギャラを払えば良い契約で、主催者は絶対損しないようになっている)だったのである。 果たしてこの程度の仕事のギャラで、9人の男がパリで暮らしていけるのか? 答えは「ノン」である。 しかし我々は、もうスタ−トしてしまっていた。 |