オピネールと孔雀の日

14th.04. 2008  by:Y.Yoshikawa

* Le Premier jour *


 「おい、お前いくら持ってる」高田が言った。
 「15万かな」時差ボケで、もうろうとした頭で僕は答える。
 「そっか、じゃあ3人あわせて30万しかないのか。ホテル変わるぞ」
 1980年4月27日パリ。午前8時30分。テナ−ル通り7番地ホテル・アットホ−ム。
 パリに着くなり、何とも情けない朝である。ホテルをチェックアウトし、2人の坊主頭の男と僕は安ホテルを捜してサンジェルマン通りに出た。通りは本を小脇に抱え、学校に向かう若者達でごったがえしている。カフェでは大きなシェパ−ドを連れた中年の紳士が、カップになみなみと注がれたカフェ・クレームに、カリカリのクロワッサンを浸してうまそうに食べている。
 「高田さん腹減ったよ」
 「何言ってんだよ。とりあえずホテル捜さなきゃ」
 2人の坊主頭の男はダンサ−と言うより・・・今やパリでは〈BUTOH〉と言ったほうが一般的だろう・・・舞踏手。そして僕は音響の仕事をするため彼らに同行していたのである。高田、森田ともに26才。そして僕は22才。
 《山海塾》と言う舞踏グル−プの、初めての海外進出の初めての朝。僕にとっても生まれて初めての外国である。
 海外進出と言ったって別にスポンサ−がついてるわけでもなく、日本で稼いだ金や借金して集めた金で、何とか舞台装置を送る手続きをしてやって来たのだ。パリで公演をちゃんとやって行けるんだかどうだか、全く何の保証もない。その上もし、客が入らなかったらノ−ギャラ。無謀で向こう見ずな企てである。
 今では海外で公演するといっても、それほど珍しいことではなくなったが、当時、海外公演の話題といえば僕の知るかぎり
     ・・・五木ひろしラスベガスでコンサ−ト!・・・
 ・・・ピンクレディ−、ロスでコンサ−ト!・・・とか
 つまり日本で円をかせいだ人が海外の、それも主に日系人や出張中の日本人相手にコンサ−トをやるくらいのものであった。もしくは歌舞伎のように国の助成金で公演をやるとかね。
 ところが何のコネも援助もなしに、パリにとりあえず行ってみて、そこで公演をやって稼いだ金で暮らそう、というのが我々の計画なのである。
 いや、これを計画と呼べるかどうか?今だから言える。僕達は無謀であった!

 

   スリムのジ−ンズに紫のベネトンのアクリルセ−タ−。背中に小さく〈SANKAIJUKU DANCE CARAVAN〉と白いロゴの入ったコゲ茶の皮ジャン。ちょっとばかりフィリピン系のエキゾチックな顔立ちで、気紛れに鼻の下に泥鰌のような不精髭をはやすことのある高田。
  いつもダ−クブラウンのスラックスに、薄いべ−ジュのボタンダウンのシャツ。高田とおそろいのロゴの入った革ジャン。まるで、こけし人形のような丸い顔立ちの森田。(後年、森田は蝉丸と名のる、がそれは随分後のことだ)
 そして僕は、と言えば黒いスリムジ−ンズに黒のTシャツ。紺のアディダスのスポ−ツジャンパ−という、どうでもいいヨレヨレの格好に髭ぼうぼう。長髪。一番よく間違えられるのがカンボジア人。
 とてもファッションの都パリにそぐわない3人はガラガラガラガラ。ス−ツケ−スを引っ張り凸凹の石畳の歩道をオデオンの方向に下っていった。ほんの2、3分歩いたところの角をのぞきこむと、今にも外れそうになった小さな看板が見えHotel Cluny Sorbonneホテル・クリュニ−・ソルボンヌとある。
 「おい、ここにしようぜ」高田は有無を言わせない口調で指差した。
 ホテルはサンジェルマン通りを左に折れ、クリュニ−通りを少し上った左側にあった。「Hotel」という看板によってのみ、ここがホテルだと認識できるような一ッ星ホテルだ。
 高田は身振り手振りを交え大騒ぎの末、値段の交渉をすませると、やっとのことレセプションの男から大きな鍵を受け取った。鍵には重い真鍮のプレ−トがついていて601と刻印があった。一泊100フラン。1フラン約60円だから、6000円。その1部屋に3人で泊まるのだから1人あたま2000円である。
 3人は薄暗い螺旋階段を6階まで、重いス−ツケ−スを抱え、ギシギシ上り始めた。もちろんエレベ−タ−はない。ゼ−ハ−言いながらたどり着いた601号室は、古ぼけたダブルベッドひとつ。(ベッドカバ−の端が破れている)それに折畳みのベッドがひとつ。そして小さな木製のアンティックな(と言うよりただ古いだけの)机がチョコンと窓際に備え付けてあった。バスタブはなく、捻るとキ−ッといいながらチョロチョロお湯を出すシャワ−、トイレ、ビデのある浴室があった。電話もTVも冷蔵庫もない。窓を開けても部屋の中に陽は全く差し込まなかった。僕はなんて陰気で憂欝な部屋なんだと、気が重くなった。
 ゴワ−ンゴワ−ン。窓から近くのパンテオンの鐘の音が、やたら大きく重く聞こえてきた。
 山海塾は当時5人のダンサ−と4人のスタッフでやっていたのだが、僕と2人のダンサ−が先にパリにやって来ることになった。高田は山海塾のマネ−ジャ−を兼ねていたし、以前短い期間だがパリに今回の企ての準備に来ていて、ほんの少しフランス語を喋れた。森田は大道具の責任者だった。そして僕は一番ひまで英語が喋れた。
 そんな訳で我々3人が、先発隊としてパリにやって来たのだが、一応先発隊なりの仕事もあった。後のメンバ−がパリに着くまで1週間。その間にまず9人が落ち着けるアパルトマンを捜す。舞台装置を積んでツアーに出るための車を見つける。半分決まりかけてるナンシー国際演劇祭の下見と出演交渉をしてくる。実際パリで人に会ってコネクションを少しでも広げる。
 「ねえ高田さん、仕事って今どの辺まで決まってんの?」
 「ン〜、最初の予定のレ・ア−ル広場9日間と、カレ−・シルビア・モンホ−で30回だろ」
 「あっそう、その後は?」
 「ないよ、アッハッハッ」
 金色フレ−ムのレイバンをかけた高田は、右手の手帳をポンポンと左の手のひらに軽く叩きつけながら言った。
 僕はその夜パリ→東京、1年期限のオ−プンのエア−チケットと、本当はもう少しよけいに持ってきていた現金25万円を確認し、いざとなったら僕一人日本に逃げ帰ろうとス−ツケ−スの奥深くにしまい込んだのである。